「悟り」ってどういう状態?
今回は僕の中で1つの疑問だった
について話していきます。
小学校か中学校か忘れましたが、仏教のことを最初に学んだとき
となったあの頃からの疑問でしたが、やっとどうやら悟りというのはこういうものらしい、というのがわかってきました。
人間の苦しみはほぼ妄想・幻想・空想
まずはじめに確認したいことが
ということです。
今の人間社会、特に日本に住んでいれば、肉体的な苦しみというのはほとんど感じることはないでしょう。
もちろん、病気や怪我をしていたり障害を抱えている等の場合はそうではありませんが、健常者なら普通に生活していて感じる苦しみは95%くらいが妄想や幻想によるものです。
どういうことかというと、例えば
という状況で
- 孤独で辛い
- ボッチと思われる
- 自分はコミュ障だ
という苦しみを感じたとします。
ですが、そのような感情は自分が勝手に作り出した妄想であり、実際はどうかわかりません。
つまり、現実以上の苦しいことを勝手に考えて勝手に苦しんでいるのです。
他にも自分の毎日の中にある「苦しみ」を思い出してみてください。
そのほとんどは自分が勝手に作り出した感情であり、実際の身体的な痛みによる苦しみはほぼないことに気づくはずです。
逆に肉体的な苦しみは「苦しみ」になり得ないことが多いです。
筋トレに苦しみ悩む人はいるでしょうか?
ワクチン接種の注射の痛みに苦しみ悩み続ける人はいるでしょうか?
つまり、人間の苦しみ=精神的な苦しみなのです。
人間の心配事の内97%は実現しない、という研究結果がありますが、そのように人間は起こりもしないことを心配するようにできている生き物なのです。
なぜ人間は起こりもしないことを心配するのか
そのような心配がなぜ起こるのかというと、それは人間が生きていくために必要な機能だったからです。
つまり、人間はこのように起こるかもしれない危機を察知することで、危険を予測し生き延びてきました。
例えば、人間は長い間、集団の中からはみ出し孤立してしまうと生きていけいけませんでした。
なので、そうなりそうな状況に出くわすと脳は危険信号を発します。
そのように、複雑な社会的動物である人間は状況に応じて、様々な危険信号を発するようにできています。
それが私達の「苦しみ」となっているのです。
ですが、今私達の社会はかなり安全になっており、そのような「苦しみ」の危険信号はほとんどが杞憂に終わります。
その結果、心配事の97%は実現しない、という滑稽な生き物になってしまっているのです。
自己(アイデンティティ)も妄想
さらにいうと、私たちが思っている
- 私という存在がここにある
- 私と他人は異なる
等の「自分」という感覚は「自己」や「アイデンティティ」と表現されますが、この感情も脳が作り出している意識です。
脳の中に自己を作り出すという機能を持った単独の部位はありません。
それぞれの機能を担当する部位があるだけで、私たちはそれらの機能を通して自己を感じているに過ぎません。
例えば、
などがあることにより、私たちは自己を感じています。
そして、この自己も人間が生きていくために必要な機能だったと考えられています。
つまり、自己があることで明確に自分と他人の間には境界線が生まれます。
それは自分を最上位に置き、何よりも重要に扱うということにほかなりません。
人間は自分の境界線の外にいる人間に対しては、モノと同じくらいの重要度で認識しているという研究もあります。
これらを考えると、自己を形成することで生存する確率がアップしたことは明白です。
ですが人間はこれまた「自己」があることで苦しみも生んでいます。
という苦しみは自己により自分と他人に境界線があることで生まれます。
自己がなければ他人と自分を比べて苦しむことはありません。
つまり人間は心配したり自己を作ったりする中で、苦しみを感じることで「危険」から距離を取り、より生存確率の高い方向へと行動してきた生き物なのです。
「悟り」とは俯瞰すること
ではこのような苦しみから逃れるためにはどうすれば良いでしょうか。
それは「俯瞰」することです。
脳が勝手に感情を動かし「心配」したり「自己」を作ることは、人間の機能であり仕方のないことです。
そこは変えようがありません。
であれば、その感情の移り変わりを「観察」し俯瞰するのです。
例えば、ただ座っているだけでも脳は様々な感情を引き起こします。
など、目まぐるしく感情は移り変わっていきます。
自分が感情を動かそうと思っていなくても、ひとりでに脳は様々なことに意識を向け心配事を探そうとします。
ですので、その感情の内容は一旦無視をして、自分の感情が移り変わっていく様を客観的に「観察」してみるのです。
そのようなトレーニングを積むことこそが「瞑想」です。
瞑想を繰り返すと、自分の感情の動きをかなり客観視し俯瞰して見れるようになってきます。
その結果、
と自分の感情から距離を置くことができるようになります。
すると心配事からくる「苦しみ」を直で感じるのではなく、現実に起こっていることだけにフォーカスして状況を把握することができるようになっていきます。
また、脳による感情は「自己」も作り出していると言いました。
つまり、瞑想を繰り返すことで「自己」すらも客観視できるようになります。
その結果、「自己」と「他人」の境界線が徐々に少なくなっていきます。
そうすることで、自己があることによる苦しみから逃れ結果的に幸福度が上昇します。
また、相対的に他者の重要性が増すため、奉仕したり他者貢献する割合も上昇します。
このように感情や自己を俯瞰している状態こそが「悟り」の状態です。
ブッダが開いた「悟り」とは何なのか、またどうやってそれで苦しみから逃れられたのか。
謎が解けました。
ブッダが生きた時代よりもきっとさらに複雑になっている現代において、「悟り」の重要性は増していると思います。
これから僕も瞑想の時間を取ろうと思います。
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